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KUTANism 2021|九谷焼の芸術祭クタニズム2021
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#09 流通を担い作り手を支え、産地を守り続けてきた問屋 KUTANism全体監修・秋元雄史が自ら現場に足を運び、ナビゲーターと対談をするなかで九谷焼を再発見していく連載シリーズ「秋元雄史がゆく、九谷焼の物語」。ここまで作家や職人たちの技や技の受け継がれ方に注目してきましたが、第8話と9話では「産業と九谷」をテーマに、産業の面から九谷焼を支えている企業を訪れます。今回伺ったのは、大正時代に創業し長年九谷焼を支えてきた老舗問屋「伊野正峰」と、インターネットを駆使して現代の卸業を営む「北野陶寿堂」です。

時代の流れ共に変わる問屋のあり方や流通の仕組みについて、主に戦前から戦後を「伊野正峰」に、昭和後期から令和にかけてを「北野陶寿堂」にお聞きしました。産地を代表する問屋2社へのインタビューを通じて、九谷焼業界の変遷や流通の変化をたどります。

案内してくれた人

伊野正満さん(左)、伊野功一さん(右)

伊野正満さん(左)。1948年生まれ、石川県出身。東京・日本橋の焼物問屋で修業後、1969年、家業を継ぐため石川県に戻り専務に就任。専務として活躍し、販路を拡大する。1988年、父である二代・正行さんの後を継ぎ、代表取締役社長に就任。2019年より代表取締役会長。

伊野功一さん(右)。1974年生まれ、石川県出身。大学卒業後、東京の陶磁器商社で経験を積む。2001年伊野正峰入社、2007年専務就任を経て2019年、父・正満さんの後を継ぎ、代表取締役社長に就任。

戦前から戦後へ、時代と共に変化し
創業100年を迎えた産地問屋

外観が特徴的なギャラリー「九谷なごみ館」。

秋元:
大正8年(1919年)に「伊野栄次商店」として創業し、2年前に創業100年を迎えられたとのことですが、会社の始まりから現在に至るまで、時代の流れと共に九谷焼がどのように変化してきたのかをお聞きできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
正満:
私の祖父にあたる初代は、早くに亡くなったので会ったことがないのですが、祖母が仕事を回していましたので、その働きぶりをそばで見ていました。祖父が亡くなったのは昭和21年(1946年)の戦後間もない頃で、祖母は夫(祖父)もいないし、とにかく自分一人でやるしかなかったんです。
秋元:
おじいさんは会社を起こす前、どこかで九谷焼の仕事をしていらしたのでしょうか。
正満:
祖母から聞いた話では、祖父は大正10年から絵付けを始めたそうです。うちの場合、当時は孫卸のような形で商品に絵を描いて九谷の大手問屋へ卸し、その問屋が全国発送をしていたと聞きました。
秋元:
当初は絵付け職人だったということですか?
正満:
はい。当時は地域ごとに描いている絵柄が違ったのですが、この辺りは「白だるま」という絵柄が特徴で、だるまの絵を描いた湯呑み茶碗などを主に作っていました。祖母からは、戦時中は経済統制があって絵を描くにも品物がない。相当大変だったとよく聞かされました。
秋元:
おじいさんが絵付け職人から一念発起して問屋の仕事を始めるために会社を興した時期というのは、大正から戦前にかけての景気が良い頃ですよね。
正満:
そうですね、終戦までは結構売れていたんじゃないかなと思います。
秋元:
戦後、二代であるお父さんが戦争から戻って来られて、そこから本格的に問屋としての事業を始めていくような感じでしょうか。当時はどのように販売をしていたのですか?
正満:
私が覚えているのが小、中学生の頃のことなのですが、父に「今日は一緒に行こう」と言われて連れ立って金沢の兼六園などへ行き、販売先を回ったんですね。私も品物を出したりして手伝ったんです。訪問販売のような形で一軒一軒回って、見本を見せて注文を受けるというのを盆と正月、年に2回していました。温泉地へも行きましたよ。高校生くらいの頃はバイクに乗って配達もしていました。
秋元:
お得意先といえば温泉旅館や料亭など、大口で購入してもらえるようなところが多かったのでしょうか。エリアとしてはどのあたりまでを対象としていたのですか?
正満:
それから土産物屋などですね。当時の営業エリアは石川県内が中心でした。そのほかには専門店や小売店を対象とした商談会のような催しに参加して、営業をしていました。
正満:
当時は商談会があって、その他にもうちのような規模の問屋が20ほど集まり、組織として行う比較的小規模の商談会もありました。
秋元:
問屋組織ができたのは、6、70年代頃になりますでしょうか。
正満:
そうですね。ちょうど私は昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックのあたりに、父から「丁稚奉公に行ってこい」と言われて、3年間ほど東京の日本橋で小売業や卸売業の仕組みを学んだ後、ニチイ系の卸問屋で経験を積みました。当時は量販店も右肩上がりの時代だったので、うちのような問屋はデパートや大型のスーパーマーケット、チェーン店からの注文が多く入るようになり、成長していきました。
秋元:
なるほど。温泉地の土産物屋がメインだった時代から、大型の商業施設で扱われるようになり、圧倒的に販売量が変わっていったのですね。流通量が増えてそれに対応していくなかで、個々で動いていた問屋が集まるようになり、さらに大きな組織になっていったと。
正満:
そうですね。昭和40年(1965年)前後はこの辺りも景気が良くて、加賀市から能美市寺井あたりにかけて続々と土産物屋がオープンしました。この辺だけでも10以上の土産物屋さんがありましたね。

有名作家の作品から自社オリジナル商品まで幅広くラインナップしている。

正満:
お客さんの流れを読みながら商売していると次第に営業スタイルも変わっていくんです。ただ、組織に入ったり新たな人脈を作ったりというのはなかなか難しかったですよ。どうしても焼き物はデパートで扱うと工芸品というよりも家庭用品として捉えられることが多かったので、価値をしっかりと伝えられるように努力しましたし、そんな中でコミュニケーションの方法も変化していきました。

九谷庄三や初代徳田八十吉、初代武腰善平など名だたる人物の作品がコレクションされている。

正満:
弊社は昭和63年(1988年)に法人化したのですが、当時は「暮らしの彩展」という商談会のグループに加盟していました。その他10ほどの展示会に不定期で参加していました。
秋元:
展示会が問屋と小売大手との出会いの場になっていったのも、ちょうど70年代頃ですね。問屋の組織ができ、だんだんと規模が大きくなって見本市のような催しの開催へとつながっていくわけですね。組織はどういった人が運営していたのでしょうか。
正満:
産地のなかでも大手の問屋が中心となって声掛けをしていました。商談会といっても、例えば「東京インターナショナル・ギフトショー」のような大規模なものではなくて、気の合う10社ほどで行っているものがメインでした。
秋元:
一般的に私たちがイメージする色んなお店が集まる見本市のようなものではなく、本当に気の合う何社かで組んで開催していたということですね。
正満:
そうですね、そこにバイヤーが訪れていました。中には歴史がある展示会もありまして、名古屋で1971年に始まり、私たちも半年に一度参加している展示会は通算100回を超えました。
秋元:
商売のスタイルとしては、今も展示会は続いているのですか?ピークがバブル崩壊後だとすると、当時と比較して商社の数はどれくらい減ったのでしょうか。
正満:
平成に入ってからもすぐに落ち込むことはなくて、しばらくは良い時期が続きましたね。展示会は規模としては小さくなってきていますが、続いているものもあります。商社の数は九谷だけでなく他の産地も似たような状況かと思いますが、ざっくり言うと私たちが商売を始めたときから半減していますね。
秋元:
半分にまで減っているのですね。問屋として九谷焼の魅力を発信する際に、どのようなブランドとして売り込んでいるのですか?
正満:
他の産地にも色絵磁器はありますが、九谷焼ならではの色絵の豪華さというのがありますよね。石川県としても九谷焼を発信していこうと力を入れていますし、産地として九谷焼の特性というのを上手く表現できていると思います。
秋元:
例えば美濃の場合は「瀬戸物」という言葉もあるほど、産地の特性がほとんど無くなってしまいましたよね。一方で九谷焼は色絵があることにより、産地の特徴を上手く残しながら九谷焼としてやってきたということか。
秋元:
功一さんが社長に就任されたのはいつだったのでしょうか。
功一:
東京の商社で主にデパートの物流関係の仕事をしておりまして、令和元年(2019年)に社長に就きました。私が東京で働いていた当時は、仕入先に大手が多かったのですが、バブルが崩壊して景気が悪くなってからは、当時を知る人たちの話を聞きながら、現状とのギャップに驚きましたね。その頃は大手の問屋さんの倒産もよくありましたので。
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