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イベントレポート 産地対談「九谷と美濃、やきもの産地対談」 2021年9月25日、KUTANism関連イベント「やきもの産地対談」が開催されました。「九谷と美濃」をテーマに、美濃焼の産地から加藤亮太郎さんと新里明士さん、九谷焼の産地からは井上雅子さんと中田博士さんが登壇し、聞き手を国立工芸館主任研究員・岩井美恵子さんが務めました。当日の様子をダイジェストでお届けします。

岩井:
九谷と美濃はやきものの産地ですが、一口に「やきものの産地」と言っても共通していることもあれば異なることもあるのではないかという素朴な疑問を抱き、「九谷と美濃、やきもの産地対談」をテーマとしたトークイベントを企画しました。加藤さんと新里さんにはリモートでご参加いただいております。まずは4名の作家にそれぞれ自作についてご紹介いただき、その後いくつかのテーマに沿って意見交換をしたいと思います。

幸兵衛窯八代目・加藤亮太郎さん

加藤:
私は岐阜県多治見市にある文化元年(1804年)に開窯した「幸兵衛窯(こうべいがま)」の八代目で、抹茶碗を中心に作陶をしています。祖父であり六代・加藤卓男は父・幸兵衛と共に、数世紀前に途絶えていたペルシャのラスター彩の技法を復元するなどの業績をおさめて重要無形文化財(人間国宝)に認定されています。経歴としては京都精華大学、京都市立芸術大学大学院で学んだ後、2000年に家業に入りました。

美濃で活躍する陶芸家・新里明士さん

新里:
僕は大学を中退後、多治見市陶磁器意匠研究所(意匠研)に入りました。今はやきものを仕事にしていて、ろくろで成形した白磁の生地に穴を開けて、穴の部分に透明の釉薬をかけ焼成することで光を透過した文様が浮かび上がる「蛍手(ほたるで)」という技法を中心に作陶しています。2010年に文化庁新進芸術家海外研修制度の研修員としてアメリカ・ボストンに滞在しました。またイタリアを訪れて制作したり、滋賀県の信楽焼に挑戦してみたりと、その土地土地の固有のやきものを自分で勉強しながら制作することにも取り組んでいます。

九谷で活躍する陶芸家・井上雅子さん

井上:
私は兵庫県出身で会社員として働いた後、陶芸に興味を持ち石川県立九谷焼技術研修所に入りました。九谷焼は基本的に分業制なのですが、私は素地から絵付けまでを一貫して手がけており、主に手捻り(てびねり)とたたらで成形して、黒を基調に「掻き落とし」という技法で描いています。龍は私にとって特別なモチーフです。

錦苑窯三代目・中田博士さん

中田:
僕は石川県小松市にある「錦苑窯(きんえんがま)」の三代目です。高校を卒業後、大阪美術専門学校で焼き物を始めました。京都精華大学に編入してからは、オブジェを中心に作っていました。大学卒業後、卯辰山工芸工房に入り、その後うつわ形のものを制作するようになりました。僕は九谷の産地で活動をしているのですが、九谷焼の代表的な表現方法である色絵があまり自分の表現としてしっくりとこなくて、どちらかというと加飾よりも造形で自分の表現を行いたいと思い、ろくろ成形にこだわっています。

産地の「外」出身の二人が気付いた美濃、九谷の魅力。

美濃のお二人はリモートでのご登壇。

岩井:
本日ご登壇いただいた4名のうち、新里さんと井上さんは家業がやきものではありませんね。やきものや陶芸に興味を持ったきっかけを教えていただけますでしょうか。
新里:
僕は千葉出身で県立木更津高校に通っていたのですが、選択科目に工芸の授業があり、そこでろくろを体験したところ肌に合う感覚があって、大学に進学してからもサークルでやきものをしていました。
井上:
私はもともと広告系の印刷会社に勤めていました。日々大量に作られ消費されていくチラシを見ながら「せっかく労力をかけて何かを作るのであれば、残るものが作りたい」と思い、かねてから興味があったろくろの体験教室に参加したのがきっかけです。
岩井:
お二人が制作の場として美濃や九谷を選んだ理由は何でしょうか。
新里:
美濃というよりも、意匠研を選んだ意識の方が強かったと思います。
井上:
体験教室を経て専門学校に入学したのですが、2年生のときに先生から「このまま卒業しても陶芸で食べていくことは難しいので産地の学校で学び、修行先を探したほうがいい」と言われ、産地の学校を選ぶなかで九谷焼にたどり着きました。いつかは地元に戻って陶芸教室を開ければと思っており、上絵を教えられる陶芸教室は聞いたことがないので上絵を学ぼうと考えたんです。
岩井:
産地の学校を卒業後、地元に戻る人もいるなかで、お二人が産地に残って制作を続けているのはなぜでしょうか。地元出身ではないからこそ気づける産地の良さ、特徴があれば教えていただけますか?
新里:
美濃は横のつながりが強く、窯や道具の情報も色々と入ってきますし、東京、京都、大阪へのアクセスも比較的良いので制作に向いていると思いました。
井上:
私はやきものを始めたきっかけが陶芸教室なのでやきものといえば食器のイメージだったのですが、産地に入って初めて食器以外の世界を知り、想像していたよりもずっと奥深い世界に魅了されました。

産地出身の二人が考える「家業を継ぐ」ことについて。

岩井:
続いて産地に生まれた加藤さん、中田さんにお聞きしたいと思います。お二人はいつ頃から家業を継ぐことややきものを生業とすることを考え始めましたか?
加藤:
もともと家業を継ぐつもりはなく、高校時代は漠然と美術系の大学に進みたいと考えていました。予備校でデッサンなどを学ぶなかで自分には絵を描くよりも立体を作る方が向いていると思いました。京都芸術大学で彫刻を学びたいと思ったのですが受験に失敗し、京都精華大学の陶芸科に入学しました。祖父や父から「家業を継いでほしい」と言われたことはありませんでしたが、心のなかで「いずれは」と考えていたとは思います。大学を卒業後は地元の企業に就職し、一年間働いた後に家に戻りました。
中田:
僕も家業を継ごうと思ったことはありませんでした。石川県立工業高校の工芸科を卒業後、一年浪人して大阪美術専門学校に入学しました。そこで初めて粘土を触ったらすごく楽しくて、途中から京都精華大学に編入して陶芸を専門的に学びました。その後、地元に戻って卯辰山工芸工房に入り自然とこの道に進んだ感じです。
岩井:
お二人とも生まれ故郷である産地を離れて県外で学んでいらっしゃいますが、あえて京都の美大に行った理由は何でしょうか。また京都で学生時代を過ごしたことが今の自分にどのように影響していると考えますか?
加藤:
京都は歴史が古く、多くの作家や先生方も活動していて、表現の自由度や幅広さが魅力的だと思っていました。京都精華大学はのびのびとした校風が特徴で、設備も充実しており、自分の可能性を広げられた気がします。また一度京都に行ったことで美濃を客観視することができるようになり、改めて美濃の魅力に気付きました。外に出たことで地元が新鮮に感じられるようになったことが私の原点になっている気がします。
中田:
京都精華大学では先生方に恵まれ、また貸し画廊文化のなかで様々な作家との出会いがあったことが良かったです。九谷の産地に戻ってきてからも、当時の経験が大きく影響している感覚があります。
岩井:
家業を継ぐことへのプレッシャーはあるのでしょうか。
加藤:
嫌々やっていたらだめだと思うのですが、幸い私にとってやきものを作ることは楽しいんです。仕事の醍醐味も分かってきて、もちろん辛いこともあればへこむこともありますが、トータルで考えると生業にして良かったと思っています。そういう意味ではプレッシャーはあまり感じていないですね。
中田:
僕は三代目なのですが、うちの場合は代々受け継がれてきた技法というものがないので、「何かを受け継がなきゃ」というプレッシャーはなかったですね。ただ、父と同世代の作家もたくさんいるなかで、皆さんそれぞれの立ち位置で自分の表現を見つけていて、僕も「自分なりの表現をできるようにならないと」と思うことはありました。

改めて焼き物と産地の関係を問い直す。

岩井:
今年のKUTANismでは「九谷の幅広さ」を伝えることをテーマとして、展覧会「高雅絢爛展-九谷焼の今-」を企画しました。現代の「九谷の幅広さ」を考えたときに、ひとまず「現在、九谷の地で制作している作家と作品」を九谷焼と定義して、キュレーションを行いました。やきものにとって産地は重要な存在だと思うのですが、登壇者の皆さんは産地としての美濃焼、九谷焼をどのように考えていますか。
加藤:
美濃焼は1300年の歴史があり、いわゆる「六古窯」の一つに「瀬戸焼」があるのですが、その一部として古くから存在していました。現在は岐阜県と愛知県で行政区分が分れていますが、もともとは同じ「瀬戸焼」だったんです。古瀬戸(こせと)の時代には釉薬の技術が非常に発達して、中国の唐物を真似して様々な技術が生まれ、国宝をはじめ多くの名品が生み出されました。それが現代にもつながっていて、釉薬のバリエーションが多くあり、また技法がたくさんあるのが美濃焼の特徴です。幕末からは磁器、絵付けの技術も発達して、現在では陶器や磁器、オブジェにクラフトまであるという、「何でもある」やきものの産地になっています。大きすぎてとらえどころのないやきものの産地なのですが、それは様々なバリエーションが生まれた結果でもあります。作家も色々なタイプの人がいるので、作家のるつぼのようなところがあり、そこが魅力でもあります。
新里:
一般的には大量生産で安いやきもの、もしくは桃山陶(ももやまとう)のイメージが強いと思います。僕は美濃焼の産地にやってきて、加藤さんが言われたように「何でもある」ところだと思いました。海外や県外など他の産地を訪れて勉強をしているのですが、それは「美濃焼」をどのように捉えて作品に落とし込むのかを僕自身が掴むための作業であり、そのために産地の「外」に出ているようなところがあります。
加藤:
そうですね。幅広いバリエーションがある中で、芯となる部分は桃山陶だと思います。日本には様々なやきものの産地がありますが、私は芯の部分が無くなると産地として成り立たなくなると思っていて、その役割が非常に大切だと使命感めいたものを抱いています。
新里:
なるほど、加藤さんは「芯」になる人ですね。僕は産地の外からやってきた立場ですが、外部から訪れた人がいることで芯がはっきりとしてくる部分もあるだろうし、一方で僕のような作家ばかりいたら美濃焼の姿が分からなくなってしまうので、求心的なものもあった方が良いと思います。お互い補完しあっているので、産地に根付いた人と外部から訪れた人の両方がいることが、美濃にとって良いのだと思いました。

軸となるものがあるからこその「変化」。

岩井:
続いて九谷についてお聞きします。中田さんが考える九谷焼とは何ですか?
中田:
石川県立九谷焼技術研修所という九谷焼に特化した教育機関があるのですが、絵付け作家を志して入所する人が多くいるように、九谷の特徴はやはり色絵であると考えます。ですので質問に答えるとすれば「九谷五彩を使った色絵磁器」が九谷焼です。
岩井:
井上さんは九谷焼、または九谷焼の産地についてどのように捉えていますか?
井上:
九谷焼を教科書的に定義するのであれば「九谷五彩を使った色絵磁器」だと思うのですが、私は加飾文化における多様性、新しい技法や表現をどんどん取り入れて発信していくところが九谷焼の本質なのではと思います。私は中村陶志人先生のもとで修業したのですが、先生は九谷焼を代表するこってりとした上絵の具ではなく、「薄絵」を使った絵付けを得意としていました。限られた技術や表現に固執せず、常に新しく変わっていこうというチャレンジ精神こそ九谷のスピリッツで、それを持っている人は九谷焼の作家と言えるのではと思います。
中田:
井上さんがお話されたように、九谷の産地ではどんどん新しい加飾方法が生まれていますね。そういった意味で特徴的なのは、九谷焼の人間国宝のお二人だと思います。一人は三代德田八十吉さん、もう一人は𠮷田美統さんです。それぞれ「彩釉」と「釉裏金彩」という技法で人間国宝に認定されているのですが、どちらも自身で表現を追求して編み出した技法です。代々伝わってきた技法ではなく新たに生み出した技法で人間国宝に認定されているというところが、九谷焼の特徴なのではと思います。新しいものを生み出す土壌が、九谷にはあるのかも知れませんね。
岩井:
「変わっていく」というのは、軸となるものがあった上で、それを中心として変化していくということですよね。その軸となる部分が、九谷の場合は加飾の文化なのではないでしょうか。美濃と九谷、それぞれの産地の特徴と、そこに携わる作家の方々がどのように産地を捉え日々制作しているかが分かりました。本日はありがとうございました。