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作家 × キュレーター対談「能美の九谷焼と自作について」 2021年9月19日、KUTANism関連イベント「作家 × キュレーター対談」が開催されました。午前の部は、能美市出身・在住の陶芸家・山岸大成さんと能美市九谷焼美術館|五彩館|館長を務める中矢進一さんが「能美の九谷焼と自作について」をテーマに対談。当日の様子をダイジェストでお届けします。

中矢:
九谷焼は金沢、小松、加賀、能美など幅広いエリアで作られており、その土地土地で特徴があります。今回は能美市で作られている九谷焼「能美九谷」に注目し、地元出身の山岸大成先生と共に魅力を紐解いていきたいと思います。
山岸:
よろしくお願いします。まず初めに、能美市にある九谷焼に関する二つの神社をご紹介します。一つは「赤絵細描」の陶祖・斎田道開をしのぶ祖霊社「陶祖神社」(狭野神社境内)、もう一つは九谷焼の産業化に大きく貢献した人物・九谷庄三をまつる「九谷神社」(奥野八幡神社境内)です。
中矢:
江戸後期から明治のはじめに活躍した二人の偉人を祀っているのですね。昔はそれぞれの境内で茶碗祭りと九谷祭りを行っていましたが、昭和に入ってから合同で開催するようになり、それが現在の「九谷茶碗まつり」につながっているということです。

九谷焼の道を開いた斎田道開と「佐野赤絵」

中矢:
斎田道開(さいだどうかい)についてご説明します。本名を斎田伊三郎と言い、再興九谷の若杉窯で本多貞吉に師事していました。その後、京都清水の名工・水越与三兵衛から学んだり、伊万里や美濃尾張などの陶地で経験を積んだりして、天保6年に佐野窯を始めました。彼は当時では画期的な分業制を提唱し、上絵部門と素地部門の経営を分け、赤絵に傾倒して良い作品をたくさん残し、また多くの職人を育てました。生前は「伊三郎」と名乗り、死後、九谷焼の道を開いたということで「道開」の名が、門人たちから追悼の意味も込めて与えられました。

斎田 道開≪赤絵五羅漢図鉢≫
1811(文政8)~1875(明治8)年
佐野九谷 陶祖神社 蔵
能美市九谷焼美術館|五彩館|保管

中矢:
これは道開の作品で、佐野窯で生み出された「佐野赤絵」の代表作です。赤絵細描で小紋を埋めている部分が圧倒的に多いのが特徴です。山岸先生はこの作品をどう感じますか?
山岸:
赤の色が現在のものと比べて異なっていますね。技法的に非常に細密で、九谷焼に限らず、日本の技術を表している良い見本のような作品だと思います。
中矢:
一言に「赤絵」と言っても、飯田屋風の赤絵と佐野赤絵は少し違いますね。道開の作品は伊万里や京都清水で学んできたことが文様から伝わってきます。窓絵で小さい絵を描いたり、小紋で見せたりするような作風が佐野赤絵の特徴です。佐野赤絵の系譜を引いているのが、現在活躍中の福島武山先生です。

海外輸出への道筋を作った九谷庄三と「彩色金襴手」

中矢:
続いて九谷庄三(くたにしょうざ)です。彼は若い頃に若杉窯で修行をして、その後、粟生屋源右衛門から青手九谷の指導を受けました。さらに山代の宮本屋窯にて赤絵を学び、小野窯で腕をふるったあと、寺井で独立します。そして幕末頃にこれまで学んできた青手や赤絵の技法、そこに洋絵の具を用いて「彩色金襴手(別名:庄三風)」という技法を確立しました。山岸先生の系譜を辿っていくと、庄三に行き着くそうですね。

九谷 庄三≪龍花卉文農耕図盤≫
1816(文化13)~1883(明治16)年
能美市九谷焼美術館|五彩館|所蔵

山岸:
庄三の義理の弟の名を武腰善平(たけごしぜんべい)と言うのですが、私の母が善平の孫でして、私は善平のひ孫にあたります。私の父方の祖先は飯田屋窯の流れを汲んでいますので、私としては飯田屋と庄三の二つを次の世代につないでいきたいという思いがあります。
中矢:
能美九谷は多くの職人たちがおりましたが、それを斎田道開と九谷庄三、二人のリーダーが導いてくれました。付け加えると産業面での功績が非常に大きく、今も能美九谷の基盤がしっかりしたものである理由だと思います。庄三の代表作の素晴らしいところは、江戸時代の画風が網羅されているところです。金襴手も赤絵細描もあれば、和絵の具で描き込んだ色絵もあり、さらには洋絵の具まで用いられている豪華絢爛な作品です。山岸さんはどのように見られますか?
山岸:
あらゆる技法を使っていながら品格を備えたひとつの作品としてまとめあげているところに、彼の力量を感じます。

能美九谷を世界に送り出した貿易商、綿野吉二の存在

中矢:
能美市にはこのように二人の名工がおりましたが、もう一つ、凄腕の貿易商が複数名いたことも大きなポイントです。本日は綿野吉二(わたのきちじ)という人物をご紹介したいと思います。安政6(1859)年に寺井で生まれた綿野は若い頃から家業を手伝い、父と共に神戸に支店を開設して、外国商社と九谷焼の取引を始めました。その後、21歳の若さで父から独立して横浜に移り、米国、ヨーロッパに九谷焼の販路を広げました。寺井には彼のような貿易商が何人もいて九谷焼の販路を全世界に広げ、そして明治20年代にはジャパンクタニをはじめとした九谷焼の貿易高が全国窯業の中でナンバーワンにまで上りつめることになります。

山岸大成さんの表現に見る、能美九谷のエッセンス

山岸さんの工房には制作中の作品がずらりと並ぶ。

中矢:
ここまで能美九谷を象徴する三人の人物にスポットライトを当ててご紹介してきました。後半は山岸大成先生の人となりや作陶にかける思いを伺っていきたいと思います。改めて、まずは自己紹介からお願いできますでしょうか。
山岸:
私の家は代々九谷焼に従事していて、両親が共働きだったので幼い頃は祖父母の家で過ごして寝るときだけ実家に帰るような生活を送っていました。それこそ「仕事といったら九谷焼しか知らない」という感じで、九谷焼はとても身近な存在でした。ただ私はそれほど絵を描くことが好きではなくて、これを仕事にしようと思ったこともなかったんですね。高校生くらいの頃、父から「お前は将来何をやりたいんだ」と聞かれて、私ははっきり覚えていないのですが「物を作るのが好きだから、大工になって家づくりをしてみたい」と答えたそうです。そこで父から「それでも仕事がなかったら困るから、絵でも描いてみたらどうだ」と言われてデッサンを習い始め、大学受験では予備で受験した美大しか受からなくって金沢美大に入学しました。不思議なもので大学に入ってみると、子どもの頃から九谷焼に親しんできたので、工芸が身体に染み込んでいるんですね。卒業後は何の迷いもなく九谷焼の道を選びました。

風土を映す、くすんだ白

≪陶額 色絵翡翠 汀≫

≪祈りの座≫

≪香器 紅葉≫

≪松韻≫

山岸:
私の作品の特徴の一つが絵を描いていない部分をあえて残すという、九谷の磁器の色を見せる表現です。九谷の磁器の色は他の産地と明らかに色が違うんですね。ちょっとくすんだ青みがかった白、その色を知っていただきたいと思って作っています。この九谷特有の白には北陸の空の色、例えば初冬にみぞれ混じり雨が降るときの空の色、あるいは真冬の空や北陸の空の色をうつした雪の色に共通しているところがあると思います。≪祈りの座≫のように私は造形をするときに直線的なものをよく作るのですが、金属で作ると歪みや凹凸がなく真っ直ぐなものができるところ、焼き物の場合はどこかしら歪みが出てきたり表面がでこぼこしたりする、柔らかさを感じる直線というものが面白いと思い、自身のテーマにしています。≪香器 紅葉≫では磁器の色を生かすために九谷五彩を使って濃淡をつけながら絵付けを施し、また≪松韻≫では古九谷の色の深さや重みを表現しています。

ルーツである飯田屋窯の赤絵細描を受け継ぐ

≪方皿 飛鳥更紗≫

山岸:
私のルーツをたどっていくと飯田屋窯に行き着くので、彼らが残した技法を現代につないでいく役割が私自身に課せられていると考えています。作品のタイトルは「更紗模様」から取ったのですが、これは九谷の昔からある連続模様です。縁の部分には金襴手で装飾を施しています。

九谷焼の発展に尽くした名工・北出塔次郎の様式を用いる

≪方花器 鴛鴦≫

中矢:
この作品を見たときに、北出塔次郎の作風を感じました。戦後まもなく塔次郎は九谷焼の近代化を唱えて自宅を解放し、美術工芸塾を開業して若い世代に九谷焼の方向性を示しました。その塔次郎風というのが、とても良く作品に現れていますね。

精神性を作品に込める

≪神々の座 出雲≫

≪環≫

≪祈りの座 斑鳩≫

山岸:
≪神々の座 出雲≫は、神が鎮座している場所をイメージして制作しました。中心に隙間を作ることにより「向こう側」や「中」、「手前」という概念を表し、その向こう側が神のいる領域であるということを表現しています。≪環≫は磁器ではなく陶器です。この地域で産出される「さや土」、屋根瓦に使われる土、そして九谷の磁土の三つを混ぜ合わせて、一つの作品として表現しました。屋根瓦の土は鉄分が多いので、このような赤い表情に仕上がっています。最後の≪祈りの座 斑鳩≫は、正倉院の校倉造を私なりに解釈して手がけました。上の模様は正倉院御物の琵琶の螺鈿の連続模様です。 
中矢:
山岸先生の作品はタイトルにもあるように、高い精神性を持って制作に向き合っておられることが伺えます。また、この土地が持つ風土を反映しているように感じます。後半でご紹介いただいた作品は、先人たちの技法を受け継ぎながら山岸先生の解釈で表現されたものが多く、大変素晴らしかったです。本日はどうもありがとうございました。