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#03 絵付けを生かすかたち 受け継がれる九谷のろくろと型打ち KUTANism全体監修・秋元雄史が自ら現場に足を運び、ナビゲーターと対談をするなかで、九谷焼を再発見していく連載シリーズ「秋元雄史がゆく、九谷焼の物語」。2021年度は“技法”と“伝承”をキーワードとして、九谷の魅力を、系譜を紐解きながら探っていきます。

華やかな絵付けに注目が集まることの多い九谷焼ですが、絵が活きるのは、それを支える素地の美しい造形があってこそ。第三話は九谷焼の“技法”に注目し、成形の基本である「ろくろ形成」のスペシャリストとして三代続く「アズマ製陶所」と、全国的にも数少なくなっている「型打ち形成」の担い手・宮腰徳二さんを訪ねます。九谷焼の花形である絵付けにバトンを渡す重要な役割を果たしている二軒への取材を通じて、職人技の奥深さを知ります。

産地からの要望に技術で応え続けて66年
愚直にろくろと向き合い、職人に徹する

閑静な住宅街の一角にある事業所。

案内してくれた人

東 剛太郎さん

1941年生まれ、小松市出身。子どもの頃から創業者である父・東豊重さんの仕事をそばで見て学び、35歳で父親の事業を継ぐ。現在は息子の万寿夫さんが代表を務める。

秋元:
まずはアズマ製陶所が設立した背景を教えていただけますでしょうか。
東:
父が1955年に設立しました。親の時代は九谷焼の大きい窯元がこの辺りに10軒近くあったかな。そこへ、ろくろを引ける人が職人として行って稼いでいたんやね。その頃は一つの窯元に留まって長いこと続けるという働き方ではなくて、職人気質で好きなときに好きなところへ行って、ろくろを回していた。私の親も職人だったから京都で修行して小松に帰ってきて、それからここを立ち上げた。今とは全くシステムが違うよね。昔の職人は好きな時間に働いていた。仕事早い人は5、6時間して帰るとかね、そういう時代やった。
東:
父親からは「やるときは一生懸命やって、長居するな」って言われとった。仕事にかかったら一生懸命やる、そして自分の思う数が作れたら、あとは遊べと。まあ、今そんなことをしとったら生活できないけどね。私は10歳くらいのときからろくろをやり始めてね。父は私に教えてくれたわけじゃないから隣で作業を見てね、真似するうちにどうにか引けるようになった。
秋元:
当時の賃金(給料)はどのように決まっていたのでしょうか。「一枚引いたら何円」という感じですか?現代で言えばフリーの職人さんみたいな方がたくさんいて、仕事単位で窯元で仕事をしていた感じなのでしょうか。
東:
そうや。これだけ引いたらいくら貰うという、そういう時代やった。そこで交渉や。昔は窯元とか商人で、ものすごく力を持った人がいたから。それが合わなければ他のところに行く、それだけや。
秋元:
先代は自分で会社を起した方がいいだろうということで、会社を立ち上げたのでしょうか?発注はどのように来ていたのですか?
東:
親とすれば、全然自信はなかったと思うよ。当時は石炭窯でしょう。今はガス窯だからちょっと慣れればできるけど、昔は窯焚きでみんな失敗していたの。一晩中窯を確認してね、大変やった。仕事は元々つながりがあった問屋さんからもらっとったね。問屋さんは全国に販路を持っていて、わしらは素地を作って何軒かの付き合いのある問屋さんに引き取ってもらって。
秋元:
なるほど。そこで直接、上絵付けする職人さんへ渡るということはないんですね。
東:
わしらは生地だけ作って問屋へ納めて、問屋が抱えている絵描きに渡している。そういうシステムになっていた。今もその方法は変わらないけど、最近はギフト関係がゼロやから昔の面白みはないわね。親から聞いた話やけど、昔は問屋が商品を見ないうちから「ひと窯分買う」って注文を入れる、そんなこともあった。一番良い時にはギフト関係でトラックにスイカを積むみたいにして運んだ時代があった。問屋が北海道から九州まで全国に得意先を持っていて、そこへ出張して販売してくる。そのシステムがすごく良かった。
秋元:
豪快だなあ笑。作れば作るほど売れた時代だったんですね。よく売れる時期が続いたのはいつ頃までなのですか?
東:
窯元にもよるんやけど、厳しくなってきたのは2000年に入ったくらいからかなあ。

事務所にはサンプルとして皿や香炉、一輪差しなど様々な商品が並べられている。

秋元:
従業員は何人いらっしゃるのですか?
東:
ろくろ引いてるいるのが2人、私もたまに引くけど。あとは釉薬かける人が3人やね。うちはろくろ成形だから、鋳込みの型ではできないこと、もう色んな形の依頼を引き受けとる。せっかくの依頼を、できないって言いたくないんや笑。1000までいかんでも、だいぶ多くの種類がある。急須なんてのは厄介で、本体と口と手と別々に作らないといけない。香炉なんかも手間がかかるね。
秋元:
ろくろじゃないと引けないような仕事もあるけれど、鋳込みや他の方法でも作れるものでも、ろくろで作っているということですね。ろくろを引き始めてから納得のいくものを作れるようになるには、どれくらいかかったのでしょうか?
東:
5、6年経ってからかな。そんなときでもやっぱり、苦手な形もあったよ。同じ形でも大きさによって難しさが全く違うからね。慣れるまでが難しい。よく技術を持っている人が「10年かかった」とか言うでしょ。あれはやっぱり、一定の技術に到達した人しか言えんね。それだけやらなきゃ自信持って受けられないもの。だからこの仕事は難しいんや、すぐには一人前になれんもん。
秋元:
ずっとろくろを引かれてきて、一番印象に残っている仕事はありますか?
東:
今は楽しいよ、これだけ歳取ったら。けど仕事に関しては、ただつらいことばっかり。窯を焚くのも成功すれば嬉しいけど、成功しなければがっかりするやろ。ろくろも引いたものの、納得しなけりゃ面白くないやろ、だから楽しいということはあまりなかったな。楽しいのは好きなことをやってるときだけ。こういう仕事は、それが当たり前なんよ笑。
秋元:
仕事のなかで特に得意なものは何ですか?
東:
わしらは磁器やから、上品さや。生きた仕事をお客様に提供する。素地を薄くして、上品な感じで仕上げる。高台を丁寧に削る。そうやって丁寧に作っているとね、焼き物に詳しくない人でも手に取っただけで分かる。売れていくのは、そういうものなんや。

「高台周りを見れば、その人の仕事が分かる。私に言わせりゃ “生きた感じ”ですよ。生き生きしたもの。それにすごくこだわっとる。親にもやかましく言われたんや」。

秋元:
ろくろを引くときに気を付けていることはなんでしょうか?
東:
皿を引くときはすごく神経を使うね。やっぱり粘土をしめるのが大事。しめるというのは、粘土を押し殺す。粘土を圧縮すること。例えば花瓶があるでしょう。慣れてきたら、しゅーっと形作って終わりや。でも、そういう時にはだいたい乾燥してヒビ割れるからね。なんでかと言うと、土をしめていないから。
東:
一番大事なことは、土殺しという粘土を均一にして引きやすくするための工程や。ろくろは同じようにして引いても、焼き上がったときに、ゆがむ人とゆがまない人がいる。歪む人は土殺しが全然足りていない。
秋元:
引き方一つでずいぶん変わるんですね。土殺しという工程は、次世代に伝えられているのでしょうか。
東:
基本中の基本だけど、最近はそれを知らないで一丁前になる人もいるかな。
次ページは:時間をかけて技術を身につけ、生きた素地をつくる。